目的地周辺ですがルートを外れました

じぶんの中には残るのだけれど、だれかにとっては意味も興味もないかもしれない、と思うものを何度か書いたことがある。特定の要素を隠すあまりに大事なことが伝わらない文章になってると後から気がついたり、身内ではすごくおもしろかったのに違うみたいということもある。

個人の記録なのだからそれはそれでよいのかもしれないし、そういう指南というか励ましを見かけるたび真に受けてみたのだけれど(基本的になんでも真に受けがち)、なんかちがうなぁということを繰り返して、どうしたらまではわからなくても「なにが」自分にとってしっくりこないのかということを知れたことはとてもよかったと思っている。

こうしてここでしてきた試行錯誤は自分の中でつながっていって、自分はひとつひとつのことを触れてみないと安心できないし、その体感がないと積み上げたり広げたりすることが難しい不器用さがあって、だからこそそれが積みあがった時にはわりかしじょうぶなものを作れるほうなのかもしれないと気がつけた。よかったよかった。めでたしめでたし。

 

これから書こうとしているのはそういう類の試行錯誤の途中のもので、もがいているみっともなさは後から読み返すときっと恥ずかしくなったりするのだと思う。けれど、ひっかかっているところが自分の中で消化できていないときは書くことを選んできた。火中でも虎穴でもぜんぜんオッケー。わかんないならやってみる一択で。

 

話は変わるのだけれど、アプリでBのついたものを立ち上げると興味のないものや何周も読んだ気がする話題が増えてて、あの頃の素敵な物書きさんたちはどこに行ってしまったのでしょう。ブログ名のちょっとひねりが効いた小洒落た感じとか分野外のこと書いてもキレキレな方々は。なんて思ってから当時も“○○年頃によく見かけたわ―”的なコメントがあったことと“思ったんだったら何度だって書いていい”的な反論に勝手に励まされたことが数珠つなぎに浮かんできて気がついた。そりゃ「古参のみなさんへ」って某所からメール来るわ。やだもうはずかしい。

なんていうか、年をとったのだと思う。ただ単純に事実として。

通り過ぎてしまったものをつきつけられるあのいたたまれなさに蓋をしたい一方で、それをくるむものがなにか欲しいなぁとずっと憧れていた。一生懸命と若さ馬鹿さという言い訳をしているときの自分にそっとかけてもらった毛布みたいななにかをいつか手に入れて自分も同じことをしてみたかった。

 

そうありたいと助けたがる気持ちはかつての自分を助けに行きたい欲で、目の前の誰かをくるむものではなかったのかもしれない。

子供のころ、好きではない服を買ってきてくれたときの戸惑いのようなもの。いいって嬉しいって言ってもらいたいのだと相手の顔に書いてあって、そうしてあげたいけれど嫌だなこれじゃないっていうここにある気持ち。与えたがり与えていたのはおそらくそんな感じのことだった。

ちいさな自分だって知っていたあの気持ちを誰かに与えながら悦に入るようなことをしたくはないし、じゃあお前が稼いで自分で買ってこいやなんてキレてもしょうがない。それから、小さくても言わなくてはいけない。好きな色はピンクじゃないの。この柄は子供っぽくて苦手。ねぇ、今度は一緒に買いにいきたいな。

黙っていては伝わらない。どのタイミングでなにを伝えてなにを得たいのか相手の事情も気持ちも考える。いまあるこの服を活かすコーデだって考える。一緒にいるためのそのめんどくさいことをやろうとしてうまくいかなくて、シャツ一枚で鼻水たらしている誰かにだけそっとかけられるような毛布があるのだとしたら、自分が受け取ったときのことを思い返すとなんとなく辻褄が合いそうな気がする。

 

やろうとしているかどうかを見極めるなんて考え方をしたことがなかった。そうじゃない人なんているわけないと思っていたからすべからく助けなくちゃと思っていた。それは自分の持っていた歪みで傲りで、気がついたのはやはり書いたからだった。

なにかを欲して選んだからこそ耐えられる重さと得られるもののこと。なにかを隠し選択を誤れば相応のしっぺがえしを喰らうこと。どんなに薄っぺらな構造体でも崩すときにはかけた時間と関わった誰かを一度否定し失くすような痛みを伴うこと。それから再構築したものはかつて得られたなにかをもう持たないかわりに、以前は手にすることのできなかった違うなにかを得られること。それだって慣れる時間がいること。それから、

必要なことは、やさしくわかりやすい望むような形ばかりでは手に入らないということ。

 

書いてみたら逆の結論が出ちゃって、ものすごいしあわせなことでいまびっくりしてる。

苦しいから責める気持ちを正当化したがってたけど、それ自体が的外れだったと気がついてしまうなんて。こうしたらああしたらっていうのが敢えてやらないっていうのも含めて与えて変えたがってる方向の行為で、やってなかったことは欲と相手を放つこと。ただそのまま見ること。似ていても「しない」理由が違うなら行き着く場所は違っていてもしょうがない。

上の大段落の最後の行が最短でしっぺがえってきましたよ。なんか涙でた。なにこれすきですだいすきです。

わかんないことやちがうかもって考えられること気づくことは年をとるごとに旨みが深まっていく気がする。できるなら、やわやわと堅強にせず柔弱なまま持っていきたい。

そう欲するということを、誰かのためにはならなくても自分のために書いておきたいのだけれど、やっぱり公にするのはどうかなぁという疑問は残ったままなので、ボタンを押したその後での気持ちも含めて考えてみます。ながながとお付き合いいただいてありがとうございました。礼。