Self-interview

--昨年末から忙しかったようですね

そうですね。本当はこんなはずではなかったんですが、結果として以前よりも忙しくなってしまいました。最初は戸惑ったり、怒ったり、ひととおりの感情の流れがあったのですが、最近は少し受け入れはじめているところです。

--それはどんなふうに?

自分のいるところが物理的に変わったとき、自分の道具やセンサーを点検したり、全体を組み立て直すことが強制されるというのがやっぱりものすごく好きです。苦しさは必ず伴うのですが、だいたい数か月するとふっと霧が晴れていくようになる。それが今なのかなと感じてます。

--今回、特に楽しかったところは?

どこかな…?よかったなってことはもちろんたくさんあるんですが、新しい感覚だなというのは「引き」みたいなところですね。うまく言えないんですけど。

この5年くらい、全開で!みたいなことができない環境にあって、それがずっともどかしくて悔しくて苛立ってたみたいなところがあったんですが、「できない」ということが誰かの力を借り、そして活かすということなんだなということをやっと腑に落とせたというか、それができるだけの自分になっていたんだなと気づいたというか。それが今いちばん楽しいなと思っています。

--なんだかよさそうな感じですね。

嬉しいな、と素直に思っています。それは、そう思わせてくれる人と出会えたからなのかもしれません。視点を伝えるだけで変化していくのはとても感謝しています。当然、そうではないことも、ひとも、あるのですが、変えられはしないけれど自分がしたいからという気持ちだけを頼りに伝え続けることを選べているのもまた幸せです。

3年に一度くらい人間不信に陥って公園の芝生を踏むみたいなことをしなくちゃなんなくなってたんですが、それをする必要がない感じです(笑)

--芝生で寝てたり、裸足で歩いたりしてましたね(笑)

してましたね。あれ、泣けばよかったんだっていまは思うんですけど、泣きも怒りもできないからしてたんでしょうね。いまは芝生の色や足裏の感覚よりも暮れていく空の色とか綺麗だったなとか、そういう記憶の方が鮮明ですが。

当時のことを思い出すと、別に芝生を踏みたくてたまらないわけでも、それがすきでもなんでもなかったんです。芝生を踏んで、寝っころがるとちょっと楽になる気がしたってだけの話なんです。それに感傷とソフトフォーカスまぶして吐き出しただけのことで。っていうのは言葉にすると恥ずかしいですね。いまも受け手としては嫌いじゃないですけど。

とにかく、やりたくてやったとか、好きでやったんじゃなくて、やらざるを得なかっただけなんです。感傷もソフトフォーカスも。芝生も。

--芝生も。

なんというか、芝を踏んでる誰かに「引く」ことを覚えたのかもしれないという気がしてるんです。芝じゃなくても、逃げ道も、ずるさも、ハッタリも、嘘も計算も根回しも。

自分を守らなきゃならなくなる状況があってした行為が自分が好むものでなくて、でも使わなくちゃどうにもならないだけの自分でしかない。なら、芝を踏んでるのはOKで、芝を刈って集め始めたら怪しんで、火をつける前に止める!みたいな見分け方でいいのかなと。そっとしておいたり、ときどき話しかけたり。ホース持って走っていくとかで。

--それって距離感と言い換えられそうですか?

距離って、許せなくても理解できなくても置くことができる気がしてるんですが、それよりも少し踏み込んでておせっかいな感じでとらえてます。愛の反対は憎しみじゃなくて無関心みたいなところの。

こういう自分なりの根拠や理由づけみたいなのがあると自分の選択が安定するのが好きです。誰かのそれもすごく好きです。

--結局、好きになりたがりだってことでいいでしょうか?

たぶん、そういうことなんですよね。

でも、好きっていうのは対象がどうあるかじゃないんだなって思うようになりました。もちろん、なにかの状態が好きという場合もたくさんあるんですが、プラマイで計算するとかじゃなくてイチゼロみたいにしちゃってもいいかな?って。人を信じるか信じないかなんて、自分が信じたいから信じるでいいかなって。

--自信がある、ない、みたいな話に似てますね。

なにをしたからとか、褒められるとか、結果とか過程とか満足とか、そういう条件を要件すると満たされないみたいなところが似てる気がします。説明しようとすると離れてくみたいなところもそうかもしれませんね。

 

《続く》