カコノログ

どうもこん**は。


「またいつか」なんて書いておいて昨日の今日ですよ。
前回「また」なんて書いてから何年も経ってますよ。

うん、それができる程度には変に丈夫になった気がします。

久しぶりに書いてみたらエディタの使い方を忘れてました。
どんなところで終わったっけ?と過去ログ読み返したら、しにそうになりました。

でも、そういう自分もあったからのいまだとは思えます。

や、恥ずかしくて転げまわりましたけど。
眩暈とか吐き気がしましたけど。ほんとに。

昨日はね、どうせEvernoteで読み返すんだったら、過去ログのうち重ためじゃないやつだけでもまた置いといたら便利だなとか思って、もしかしたらまたそのうち書くかもしれないなとか考えてたんです。どっちでも気持ちの動いたほうにしよう、って。

それで過去ログインポートして読み返して、古いエディタを引っ張り出して読み返して、あれ?っとなったんです。

結論から書いちゃうと、3年半経ってはじめて自分の書いたことが腑に落ちたんです。すべてではないけれど俯瞰から見えた気がしたんです。骨組みが透けた構造体として眺められたような。

なんかね、ちょっと自分でもなにかいてるかわかんないことあったんです。ときどき。感情レベルでわかるけど言語レベルに落とせてない、の逆のことが。


…すみません。めずらしく時間があるからこれは書くしかないか!とか思ったんですがギブします。


で、2011年12月頃に書いてた文章を下に置きますので、これをもってご挨拶に代えさせていただきます。

 

 


『Around issue』

もう10本くらい書いてみたんですがなんだかうまくいかないので思いつくまま吐き出してみました。あと、劣化しててわかんないかもしれないですけど文体借りました。ものすごい長文です。自分でも読むの20分以上かかりました。これを逃したらもう書けないと思って書いたんですけどもう書かないの間違いっぽいです。

***

こういう文体って自分語りにおけるひとつの到達点じゃないかと思うんです。

途中から話の内容は変わりますけれども、前半で書いてみるつもりなのは自分がこの書き方するならどんなこと考えるかってことであって、その方がそうだってことではないつもりです。内心の忖度みたいなところはあるかもしれませんが、誰かを覗いて結局自分のこと覗いて語ってたってのはまあよくあることなんでそう思ってもらえるといいと思ってます。

「文章に枝葉が多い」と自分は呼んでるんですけど、この文体は伝えるため言葉を尽くしているというより「いくらでも隠せる」ってことのような気がしてならなかったんです。本音だとか隠しておきたいけど言っておきたいところを埋め込める利点の方が強いんじゃないかって。それに、情報の多さというか比喩の多用によって相手に伝えよう説明しようとしてるんだなって感じにもなるし、こんなに長々と文章を書くことがないひとを挫折させたり、そうまでして書きたいことがあるってことに明後日な感想を抱かせることも可能だし、ここに下ネタとかお約束ネタを入れると「このひとは読む者を楽しませようとしてくれてるんじゃないか?」「客観視できてる?」「じゃあ世界入ってるウザイ奴とは違うのかな?」なんて思わせることもできるんじゃないかとか思ってたわけなんです。

あとこの書き方って読者を知ることもできるんじゃないかって気もしてました。というのは、自分語りするひとにはリアルで受け容れられなかったって経験があったひとがそこそこいるんじゃないかと思うんですが(ってのは自明のことらしいんですが一応書いてみました)、自分を理解できないようなひとも読める状態で自分語りするのって結構怖いし苦痛でした。けど、ネットで公開するということは誰が読んだっていいということでもあるので、だったらよっぽど興味があるひとじゃないと読むのが耐えられないようにすればいいって自分なら考えてしまいます。「文章=自分」なところが強いと「自分と自分の文章は別」のカードは使えないんで逃げ道は用意しときたい。「自分のために書いてます」と言えないなら「ミスリードだろ?」って言えるようにしときたい。なんで、自分はネットで自分語りをしたいなら文章をいじるしかないなって思ってたんです。

なんでそう思うかってことをもっと書くと、文章を読むことを続けているひとなら自分の外から文章を読めるひともいるんじゃないかと考えてるというのが根元にあります。ちょっとこの辺うまく伝えることできるかどうかわかりませんが、この登場人物になりきって文章を読むというやり方はあると思うんです。それはアニメでも漫画でも対象はなんでもいいんですけど、その人物が脳内に流れ込むみたいになって要らない枝葉が全部落ちていって、核心みたいなものが見えたと思えたとか、自分を登場人物みたいに思ったり理解者とか思ったみたいなことは珍しくないことなんじゃないかと思ったんです。それはそこに自分のよく知っている情報の蓄積があるか、その作品がどれだけ優れているかに左右されるところもありますけど、それ書くと長くなるし今回の本題じゃないんで端折ります。言いたいのは「自分から出る」ってことです。

そういう読み方をしたことがあるひとならやろうと思えば意識してそれができるんじゃないかって思うんです。作品や登場人物を自分というOSの上でプログラムとして動かせるみたいなひとはいて、これ同人のひととかそういうとこあるんじゃないかと思うし、春樹文体で書くってやつとかもそういうとこあると思うんです。比喩とか表現の癖とか文章の構造を理解するとかしないとかそういう問題じゃなくて、模倣ともまたちょっと違って、まるごと取り込めているかどうかで、読むとき「我」みたいなものが捨てて作品に潜れるかどうかってルートがある。で、子供の頃そういう読みができても大人になるとできなくなるのは自我と経験とか知識の差で、子供の頃なら「自分の枠」がやわらかいからあっさり出られてなりきるみたいなことできるんじゃないかと、そういうのないかなと思ったりするんです。けどこれすごいい頭のいいひととかだとまた違うやり方あるのかもしれないですけど。

縦糸と横糸を複雑に交差させた織りの布地に過剰とも思えるような刺繍を施したような文章ってもんがあるなら、それにまったく興味のないひとも、どっかで見た平織りの布地にクロスステッチの刺繍との違いに驚くひとも、なんでこんな手間かけるのかがわかんないひともいるんじゃないかと思います。「?」とか「!」と思ってそれ以上の理解までいかない。こういう枝葉の多い文章はそれに似たとこあります。でもどこかには布の織り方やステッチや文様やその歴史についての知識、自分も針を動かした経験があるひとがいて、理解というか作り手の意図を感じ取れたりもするんでしょうが、それはまだ「自分」の枠から出てない。自分の知識や経験という眼鏡を通して見てる。ここの文様は**様式だとか、自分ならここに銀糸を使うなだとか。それも「理解」への道だっていうのは否定しませんが言いたかったのはそれも全部捨てるやり方のことです。なんかやっぱこれ伝わんないっぽいですね。諦めます。

無理矢理この話をつなげてしまうと、自分が書いてきたものを読んでいたほとんどのひとはこの内容を自分のことのように共感して読むことができなかったはずだし、感覚的なところで拒否しかなかったはずじゃないかと考えてました。エピソードにも心情にもとっかかりがないから、ぱっと見て「?」のところで脱落するひとの方が多いし、どこか一部がわかってもまさか隠したことまで読み取るひとはいないんじゃないかという尊大な考えをしてた。だからわからないのはぜんぜんかまわなかったし、そうあって欲しいです。こういうトラップとブラフだらけの文章を書いてきた側から言わせてもらえるなら、誰が読むともわからないネットで自分の内臓晒すみたいなことするならそういうことにしないと書けないんで、どこに目を向けてもらってもよかった。ただ、「文章=自分」だと石投げられるのはものすごく痛いんで、そういうひとのことは刺激したくないんですよ。それで枝葉なり刺繍なりが文章に要ると思ってたんです。

けど、こういう書き方で書いてるひとってだいたい男性です。これを女性一人称でやるならどうしたらいいんだろうっていうのはずっと考えてました。書き手と文章の間に距離を置く書き方ってあると思うんです。読み手を突き放したり、自分は自分なんだよ入ってくんなみたいなラインを知らせるやり方が。これ、男性一人称のが絶対いいです。女性一人称でやるとどうしても強がってるみたいになります。あと、感情書くのも変にべたついたり乾いたりするし、具体的なエピソードで悲惨なのは痛々しいです。なんで描写はできるだけ削ったほうがいいと考えました。じゃあできることはっていうと「可哀想な女の子」の物語というかポエムくらいしか書けないんです。そうなるとあんまりネタも入れられない。枝葉とか刺繍みたいの増やしたいのに、石投げられないようにしたいのに、どんどん削れてくんです。内蔵を風に晒してるみたいな文章書いてるみたいで寒いっていうか痛い。まあそんな感じでずっと文章の問題だと思ってたわけなんです。

自分のことを不幸だとか可哀想だとかはもう思ってなかったんです。それはもう肯定してて、恵まれてるな幸せだなと思ってました。けど「可哀想な女の子」ならかなしいって書くんじゃないかというか、書くよなと。それなら枝葉増やさない代わりに「あたし負けられへん!」という感じを出すことにしました。

これも前に書いたことと重なりますが、自分がしたかったのは「わからなくていい」「しょうがない」「無理」っていう壁を崩すことでした。人間関係でいつも自分の足をひっぱってる「隠す」と「諦め」は、「晒して」「わかって」に振るなんてことでもしないと上書きされそうもないくらいに根が深いなら、駄目でもともとやってみようが狙いです。これは書かなかったことのはずなんですけど、そうなるのがなぜかっていうと他者を下に見てるからだという自覚はありました。不幸という塔に登って見下げてる状態。このまま行くのはヤバい。これが自分のスタイルで変えられないとか嘯いて固まっちゃったら終わりだろって思ったんです。

とは書いてますがそれも通過地点としてはアリだと思ってます。たとえばですけど「病気語り」ってもんがあるなら病気が重いひとって偉いところあるんです。健康なひとにはすげえ馬鹿みたいな話かもしれませんが、診断名があるし検査数値とかもあるんでそれで比べられるんです。痛みは個別に違うのに、自分が痛みを少しでも知ってるからこそわかるって考えられるところは痛みを知ってるひとの美徳であり盲点にもなります。これは不幸もそんなとこあります。エピソードの重さと数で比べることはできるんです。あれも、これもそう、と。そんな感じで病気や不幸が多いひとのが認められるとこあるんです。けどそれチキンレースです。その先になにもないです。

ですがそのチキンレースしかない人間にとってはどうかって考えてみてもらえると嬉しいです。そのレース場でしか慰められないことと吐き出せないことがあるなら、なんぼだって慰められたらいいって自分は思ってます。それはいい意味で「自分だけじゃない」ということを教えてくれるだけじゃなく、生きる力や自信に変わることもあるんです。「これを経験してるんなら、これから人生に起こることはたいしたことじゃない」と。醒めたこと言えばそれより悪いことなんていくらでもあるし、恐怖が染み付いて動けなくなるってのもあるし、レースに参加できず元の日常にも戻れないってひともいるのは確かなんですが、でもやっぱり見てると抜けるひとの大半は「だからもう大丈夫」ってとこから抜けてくんです。

本当に抜けたひとは「誰だって苦しいことや辛いことを黙って耐えてる」みたいなことは言いません。まだ抜けてないひとか、もうぜんぜんわかんないひとに限って言うんです。けど、そのどっちもに言える言葉がないんです。昔は自分だってわからなかったし、それを受け止めるのがどれだけ苦しく時間のかかることか知ってるから。明けることのないかのような夜の中で誰かが朝を迎えた喜びを聞く辛さを知ってるから。そのどれも人生をかけて理解できないかもしれないもの。こんな思いをしないで命の終わりを迎えるのかもしれない。もしくは、生きて、生きることでひとと出会い失っていくなかで理解するのかもしれないこと。伝えたいから伝えるばかりがいいとは限らないことも知っているから。

痛みのあるひとの話というのは、物理的な位置としても精神的なものとしても自分よりも少し下だと思う相手に話しやすいところがあると思うんです。これちょっと興味深い事象なんですが、不幸って上位でありながら下位にもなれるんです。明るくしていれば見上げられて、嘆いてばかりじゃ見下げられる。でも不幸だって幸福だってそんな続きませんから、振り幅でかいひとほど話す内容とか自分の見せ方で相手との関係はいくらでも変わるって知ってるんです。さらに、そのどっちに有効なのは笑いにすることだということも。それは、つらい状況を生きる知恵みたいなことなのかもしれません。

最初の方に書いたこの文体への印象についての根拠にはこれがありました。駄目な自分を晒しつつ強者となれることだってあるのは経験してたし、なのに思いやってるつもりでいられるのも知ってました。ここに自分みたいな「誰かのため」にって理由づけなんてしちゃったらハイパー俺タイム。わからない奴を見下げて不幸の塔でぼっちの勇者になれる。だから最初に読んだときあまりに痛くて言葉が出なくなったんです。自分語るためにこんなに高い塔作っちゃったらもう誰も登ってこれないだろって。

文体崩れましたが勢いで書きますんで、勢いで読んでください。すみません。

わかってもらえないひとと接するのは苦痛でも、共感し合える似たもの同士が集まってる限界ってあるって思いました。人生は短いんだから付き合わなくていい人とは付き合わなくていいって説もありますが、それはそのひとの個別性によります。自分はこのままわかってて距離を置いて接してくれる優しいひととだけ親しく付き合ってちゃ駄目っぽいなと思いました。そもそも「わからなくていい」なんて壁を作ったのは「わかってもらおうとするといいことがない」と学習したからですが、これおかしいです。もしこれを「人間らしく」考えるならば相手の痛みを知ってるからしないという方向に行くはずだと思うんです。なのに自分はこのカードを切ればゲームに勝てると思ってました。自分の利益考えるのは生き物として当然でも、そこで開き直るのは違う。

とはいえ、基本が「わからなくていい」なんで正直やりたくないんです。この4年間でいちばん多かったタイプの反応は「楽しいこと書け」の類だったんですが、わかってやってるんだっていう勝手な理由は言えません。それでときどき嫌になって閉じてました。「可哀想な女の子」は言い返したりしないはずなんで、ごめんなさいごめんなさいでもわたしこうなんですってやってるのが苦痛になるんです。繊細だから寄せ付けないって感じにして、このひとに何か言ったらブログやめちゃいそうとか思われるようにしようだなんて浅はかな戦略は裏目にしかならず、4年頑張ったけど耐え切れませんでした。文章を書いて下さる方はまだよかったんですが(それにじわじわやられていったのも事実ですが)、まぁいろんなことがありまして、それになんの意味があったのかさっぱりわかんないです。あと、「おっさん」が罵倒してた「童貞のぼくちゃん」(これエグいですね)は非実在です。強い関心を向けてくださったのは複数だったんで、他にもこういう奴がいたんだなーと思ってもらえるように、情とか恨みは残さないように、ダイレクトじゃなくてワンバウンドで当てるようにと血が上った頭で考えたら、まぁ当然のことながら裏目です。なにより、最後まで設定を突き通せなかったことも、最後に書いたのが罵りの言葉なのも、その後かなりの反動がきました。ひと月ご飯をろくに食べられなくなったのは自業自得です。

「おっさん」は本音よりもかなり盛って書いたんであれは流石に極端すぎるとしても、書いてて「盛ってる」とか「違う」と思うことはあったんです。もうなにが嘘なのかっていうのが自分でもわかんないとこはありますが、ここだけは本当の気持ちを書いたと思える箇所をどこかに必ず作るようにはしてたんです。そしたら、そんなちょっとの箇所を書くだけのことでも嘘と強がりで補強してただけで隠れてた気持ちがあったとわかるんです。いつの間にか強がりが鎧と武器になってたなと。もし書かなかったら「鎧=自分」と思ったままだったかもしれません。けど、それは悪いものじゃなく使いようなんだと思えるようになったのはよかったなと思っています。

ついでに書いてしまうと「かわいらしい」感じの文章は読み返すと毎回激痛でした。もう本当にどうにかならんのかと思ってました。漫画とか物語をひな形にしたせいか言い回しが古臭いし独特にあざとい。このことについての偏見というか同族嫌悪を晒してしまうと、演技でも天然でも「かわいらしさ」を出せるっていうのはどこかに強い自己中心性があって、誰かの目線には敏感だけど別の目線には鈍感で、都合の悪いことは切り捨てられる剛の者だと思ってます。だからこそ守れるし見せられるところなんだと。なのにそういう感じの女性ブロガーさんばっかり好きなひとの観測範囲に入ったり、「おっさんばっかり読んでるブログwww」って書かれたりするともうしにそう。自分バッタもんですから!いないよ!これうそだから!っていいたい。いいたいけどいえない。

そこへいくと腹黒いとか口汚いって世渡りとしては便利で、たまに毒吐いておくとがしっと気持ちを掴めます。見た目と言葉を逆にすると「本音」って受け取られがちなのってどうしてなんだぜ?とか思うんですがわからなくはないです。遊んでそうなひとが真面目に語ると見直しちゃうとか、素行のよくないひとが規則守っただけで褒めちゃうみたいなものなんでしょう。裏の裏には裏があるし、そのまた裏にも裏がある!意外性がいつも「真実」とは限らない!(大人の意見)

「かわいらしさ」とかイメージというのは自分の中だけじゃなくてそれを見つけた誰かのものでもあるし、文章を書こうとして「違う」って声に従えば「かわいらしい」と自分で思う自分がいちばん楽だしのびのびとしてるのも事実なんで、とうとうこれも自分だと受け入れることにしましたが、見せるのは恥ずかしいし、コンテンツとして消費されるのが苦痛だったので見せる相手は考えたいと思います。好かれたいって自覚があるなら自分は不特定多数にここを見せ続けるともっとあざとくなるような気がします。

話は前後しますが、「可哀想な女の子」をインナーチャイルドとして、大人の自分が振り返って救うように書いていたのは「おっさん」で書いた通りです。ただ、最初は文体として「可哀想な女の子」が必要で、書いてるうちに自然とその作業が増えていき、そのうち修復の必要がない箇所をほじくり返して書くようになってしまったので、自傷行為のようだと最後は自分でも嫌になってました。かといって、隠してきたことで晒しておきたいことっていうのはそういうことだったりもして行き詰ってました。一応書いておきます。

…って、すっかりいつもの文体ですね。すみません、このままいきます。

なんの話だかもうわからなくするつもりで書いたら本人もわからなくなってますが、4年間楽しかったということは書いておきたいと思います。胸の奥から何度も言葉を掬って気持ちにぴったりくる言葉を見つけるのがもう本当に楽しかったし、それに反応いただいたりしたのも嬉しかったです。反応の種類によっては実際ものすごくイヤで苦痛だったしときには気持ち悪かったりもしましたが、自分からはかかわろうとしないひとだからこそ、どうしてこのひとはそう思ったかってことを読めたからこそ、いままで想像もしないような気持ちや考え方とその元となる経験や出来事があると教えていただいたと感謝しています。楽しくない内容を書き続ける私を罵ってもらえてたのも、よくないと諭してもらえたのも、思いがけない言葉を投げてもらえたことも、見守ってもらえたことも、なにもかも過ぎてみれば幸せに思えます。与えたことが返ってくるのも本当だったし、予想もしないことが返ってくるのも本当でした。因果なんてものがあるなら因果をなめてました。世界すごい。人間やばい。ちょうおもしろい。

願ったことなら叶いました。相手を見下げるのではなく、諦めて拒絶するのでもなく、「わからない」はスタート。越えたかった壁はなくなりました。だからもう「可哀想な女の子」という設定を続ける必要はないのに、スライドさせようにもうまくいかない。なら、他のこともいろいろつらくなったし、このひと幸せになりそうだよーってとこで終わりにしようと思いました。なのに実際終わってみたらひどく呆然としてしまって。

どの場所にも誰にも物事にもなるべく執着を持たないようにしてきました。離れてしまうと誰かが泣くのを「なんで?」と笑って「またね」と言って「また」が二度となくても「そういうもの」でした。だから今回もそうなると思ってたんです。もうやりたくないことしなくていいし、無理と嘘を重ねなくていいし、粘着だってされない。なのになんで? と一週間考えて、自分が随分とかなしい人間だったということに気がつきました。どれだけ時間を過ごしても、どれだけ言葉を交わしても、上っ面で演じてひとと付き合っていたから悲しいと思えなかったんだと。

童話のお姫様みたいに塔の上で誰かを待ちながら「ここまでこられるひとなら話してあげてもいいんだからね!」なんて都合のいいこと願って待ってるみたいなことより、どんなに怖くても自分から塔を降りて、どんなにたどたどしい言葉でもいいから話しかけて、少しずつ自分のことを伝えてく。伝えなければ伝えることの幸せはわからないし、誰かに受け止めてもらえたと思えたときの飛んでいきそうにな気持ちだってわからない。それがわかれば伝えてもらえる幸せの意味だって変わっていくのにそれもわからない。寂しいのはわかってもらえないからじゃなく伝えていないからで、寂しさは目の前を遮ってなにも見えなくしてしまうから誰のこともよく見えなくする。こんなに長い間たくさんのひとを随分さみしくさせてきた。

そこまでの学びを含めての「終わり」のでした。

恥ずかしくてやりたくなくて理屈こね回しながら続けてきたことは予想もしなかった答えをくれました。なら次に来るのは「はじまり」だろ?なんてするのは流石にちょっとないだろうと思うのにどうしてもそれしか出ないので、ブログやめてさみしくてかなしいんでもっかいやりたいですっていうの認めてそう決めたらいきなり体調が良くなりました。やっとわかった「わからない」と「わからなくていい」を肯定のスタートにしてどっちに行こうかって考えるなら、それでも「わかってくれると嬉しいです」って方向がいい。どうやったら伝えていけるのかもっと考えてみたいし、このあたらしい気持ちの先になにがあるか見に行きたい。馬鹿もみっともないのもいまに始まったことじゃないくせに恥と外聞とへったくれは相変わらず気にしまくるんだろうけど、それでもわくわくしちゃう方を選べるくらいの自由をこれからの自分にあげることにしようと思うんです。

***

すみません。えっらい長くなりました。あと、文体借りるの途中から無理でした。下ネタ書けない辺りが自分の限界だってことで。(って突き放し方やってみたかったんです)あと、これ後でものすごい後悔します。絶対します。でも、その半年後くらいにまたニヤニヤするんじゃないかと思います。

 

…って、ここから3年半かかったんですけども後悔はしていないので公開しました。